今回のブックレビューは、
★★★ 『自然に無限価値を見る』★★★ 谷口雅宣先生(講話)
★★★ 『パクス・ガイアへの道――地球と人間の新たな物語』★★★
トマス・ベリー著/メアリー・エヴリン・タッカー編/浅田仁子訳
です。内容を一部抜粋してご紹介します♪♪
自然に無限価値を見る
講話:谷口雅宣

あるいはエコロジー的に考えていただくのだったら、我々は自然というものの価値を認知する必要がある。つまり、何にもない、人間がまだ踏み込んだことのないような自然そのものに大変な価値があるのだということを認めなければいけない時代になってきてる。今言ったことをまったく同じ内容ですけれども、もっと宗教的に言えば、我々は物の背後に“神の命”“仏の慈悲”を見て感謝して使うということですね。この『「無限」を生きるために』https://www.ssfk.or.jp/p/a/105228.htmという本の41ページです。真ん中辺ですね、段落のかわっているところにハッキリ書いてある。
つまり一切の人や物は本来清浄無垢である。
これ別の言葉で言いますと、どういうことかと言ったら、「廃棄物なんてものはありません」ということですね。「清浄無垢」ということは。自然界には「廃棄物」はないわけですよ。他の生物、ある生物の廃棄物は、他の生物の、食料になると、いうのが自然界の姿である。それと同じように私たちも自然界のこの、“神の御心”を学んで、それを私たちの産業に生かしていくということ以外に、これからの人類の方向性はない。
つまり一切の人や物は本来清浄無垢である。だからすべてが大調和していて、死も乱も争いも病もないのが本当の世界(神の国)であるということだ。この実在界(実相)を現し出すには、ただ洗浄の練習あるのみ。その練習のために吾々は仮にこの世に生れ出て、肉眼や肉の耳で見 たり聞いたりしつつ、芝居の表現をたのしんでいるのである。これを「人生学校」の“学習”とか“勉強”とかということもできる。
私たちは経済活動を通して、この「人生学校」の“勉強”や“学習”も出来るということですから、廃棄物を作らない、ためには廃棄物を自分で捨ててみるとね、これはやっぱりあの実感がわいてきますよ。谷口清超先生は空き缶拾いをやってますれけれども、私は毎朝、“生ゴミ捨て”というのをやってます。家の庭にコンポストがあって、それを毎日出る、生ゴミというものをコンポストに捨てていくと、だんだん土に変わっていくのが分かりますよ。その代わり、ウジ虫も大発生しますけどもね。でも、これは人間が見ると“きたない”ものというふうに見えるけれども、しかしウジ虫というものも、カビというものも、腐敗というものも、これは、自然資本においては、“ゴミ”じゃないんですよね。ただ我々が見るとそのように見ている。つまり私たちが心の中で勝手に“廃棄物”をつくってムダ遣いをしている。
パクス・ガイアへの道――地球と人間の新たな物語
著者:トマス・ベリー
編者:メアリー・エヴリン・タッカー
訳者:浅田仁子
第9章 地球が生き延びるための法制
(p.151~)

ここでもっとも重要な仮定は、「各存在がそれ以外のあらゆる存在と相互に依存するためには、存在するがゆえに生じる生来の権利が各存在にあることを、人間が認めなくてはならない」ということである。この相互依存性はいちいち考えるまでもない。地球が病めば、人間は病む。地球の経済が崩壊すれば、人間の経済は存続できない。土壌が汚染されれば食糧は育たず、人間は死ぬ。気候が大きく変動し、降雨や日照が影響を受ければ、深刻な結果が待っている。生存条件そのものが保護されなければ、人間は滅びるのである。気候同様、人間の行為も、他のあらゆる存在に確実に影響を与える。人間が多雨林を破壊すれば大地の砂漠化が進み、地球全体の営みがバランスを崩す。
人間は、肉体ばかりか、魂、精神、想像力、情緒をも、自然を直接体験して養っている。海や山、空、夜空の星々、草地を彩る花々、鳥たちの飛翔と歌声――これらの壮麗さに打たれたときに湧き上がる詩情、心の高揚や充足、感動に匹敵するものは、産業の営みにはない。自然界が壮麗さを失うにつれ、人間の生活は肉体的にも精神的にも充足感が薄れてきている。これは何も人間に限ったことではない。他のどんな様態の存在も同様である。地球共同体の各メンバーの幸福は、地球そのものの安寧次第なのだ。 こうした背景を踏まえたうえで、憲法や裁判所で認められるべき権利について、以下にいくつか提案したいと思う。人間の存続や幸福だけを考えるにせよ、もっと大きく地球の運命を懸念するにせよ、私たちは法的な問題に直面する。これはもはや避けて通れない問題だ。
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