今回のブックレビューは、
*** 『新選 谷口雅春法話集5 光明道中記』 谷口雅春(著) ***
*** 『永遠の別れ――悲しみを癒す智恵の書』 
    エリザベス・キューブラー・ロス/デーヴィッド・ケスラー(著)
    上野圭一(訳)                    ***

です。内容を一部抜粋してご紹介します♪♪




新選 谷口雅春法話集5 光明道中記

著者:谷口雅春

四月十日 幸福相踵いで来る日(p.116)

心に罪を背負っていては、罪から逃れることは出来ぬ。
(『生命の實相』第十二巻)

 「物質は無い」――とは、すべてあるものは「物質でなくして生ける実体」であると云う意味であった。併し、「物質」と見えている其の儘にその「生ける実体」が存在すると云うのではない。吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを物質的に、三次元的に翻訳して視ているのであるが、半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば縦横厚みだけの三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、それは無限次元が三次元に減ぜられただけであって、不幸も病気も災難も起らないのである。それは恰も、立体的存在としての肉体が、平面的存在の如く写真に写されているからとて、その写真には健康者は健康として写っていると同様である。ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、間違が起るならば其処に写し出された写真に現像ムラが出来たり、ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり……色いろの不完全さがあらわれる。無限次元的存在であるところの「実相人間」が現象界に三次元的存在として写象された場合に不完全さが時として現れるのはこの原理である。しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。



永遠の別れ――悲しみを癒す智恵の書
著者:エリザベス・キューブラー・ロス
   デーヴィッド・ケスラー
訳者:上野圭一

死後の生(p.195~196)

「その子は、わたしをとても愛しているっていうのよ」と少女はいった。「パパもママも愛してるって。どうしてそんな人に会ったのかしら?
 わたしにはお兄さんなんていないのに」
 父親は涙ながらにいった。「いたんだよ、お兄さんが。でも、おまえが生まれるまえに病気で死んだんだ。おまえが大きくなったら、そのことをいおうと思っていた」
 人が死ぬと他者との交流はすべて終わってしまうと考えられがちだが、それは間違っている。お腹のなかの子どもに話しかけても異常だと思われないのに、亡くなった人に話しかけると異常だと思われるのはなぜなのか?たとえ死んだあとに「ごめんよ」と謝ったり、配偶者・母親・友人などに「愛してる」と伝えたりしたところで、けっして遅すぎるということはないというのが真実である。一〇年、二〇年、それ以上も長いあいだ「やり残したこと」があったとしても、その仕あげをするのに遅すぎるということはけっしてないのだ。
 死に際して、人は自分を愛してくれていた故人たちだけではなく、それ以外の大勢の故人が自分を待っていてくれたのだということを知って驚くことになる。あの世に行ったとき、親しかった故人が集まって歓迎してくれるのはありそうなことだとしても、すれ違っただけで覚えていない人たちまでが自分を待っていたということがわかるのだ。
 霊魂の生まれ変わりを信じている人もたくさんいる。人間はおなじ人物に何度も何度も生まれ変わり、同様の任務を与えられた人たちのあいだで生きながら、この世で教訓を学ぶのだという思想は、けっして珍しいものではない。