今回のブックレビューは、
*** 『希望の泉(8) 〈CD版〉』 谷口雅春(講話)***
*** 『谷口清超ヒューマン・ブックス7
      キリスト イエスの神秘的生涯とその解説』 谷口清超(著) ***

です。内容を一部抜粋してご紹介します♪♪




希望の泉(8) 〈CD版〉


講話:谷口雅春




「インデックス3.創世記の話」から抜粋

 神話というのは、ただのおとぎ話ではないのである。それには真理が表現されているのであります。ただのおとぎ話じゃない。
 そうして人間を物質であると、こう思っているその智慧を食べたわけなんです。そこへ神様がやってこられて「お前はわしが食べるなという智慧の木の実を食べたな、けしからん」と「もうエデンの楽園におることならない。出て行け」というのでエデンの楽園から追放せられたというのは、すなわち、人間は物質である、肉体であるというそういう考えを人間が一度飲み込んだならば、もう人間は本当に幸福になれない、さっき言いましたように、奪い合いの世界が始まるしか仕方がない。
 だからこの世界を本当に平和に、本当に幸福に地上に天国を実現しようと思ったならば、どうしてもこの世界の成り立ちが物質でできているんじゃ無いのであって、霊的存在であると、で、霊がこの世界を造る場合にはどうして造るのであるかというと、それは心によってしか造るしか仕方がないのであると。だから宇宙のありとしあらゆるところの天体は悉く神様の原動力として造られておるのであるから、それと同じく神の子として、神の最高の自己実現として生まれたところの人間はやはり心によって自分の欲するもの、自分の希望するものを実現することができるのであるという、その根本原理を知って、そして物質に執着することなしに、まず物質の世界に問題が起こってき、困難が起こってき、争いが起こってきたならば、その奥には必ず心の世界に何か間違いがあるに違いないんだということを、それを反省して、そして、それからですね、あらたに心の持ち方を変えて動き出すと。そうするとこの世界が根本無明の方から改造してまいりますから、だから根本的に改まってくる。
 それをこの形の世界だけ、物質の世界だけをなんとか調整してみようと思って、心の世界を忘れていると、いつまでたっても根本がよくならないから、形の世界も結局はいつまで経ってもよならないということになるわけであります。





谷口清超ヒューマン・ブックス7 
キリスト イエスの神秘的生涯とその解説


著者:谷口清超  



第九章 第一の奇蹟 (p.68〜69)

天より天降った神の子なる真の人間のみ天国に昇ることが出来るのである。実相人間のみが天国に昇るのだ。さればやがてモーゼが荒野で杖の先に蛇をつきさして挙げた如く、土の塵なる私の肉体も磔にかかり、『肉体本来無』を示す時が来るにちがいない。それは肉体を抹殺しても、永遠に滅びない本当の自分があるということを示すことにより、それを信ずる者の救われんためであるのだ。」
 神は「人間神の子」の自覚の先駆者であるキリストを世につかわし給うほど世の中の凡てのものを愛しておられたのである。これ全て、彼を信じ彼に導かれて、永遠の生命を実現せしめようとの御慈愛に他ならないのである。神がイエスの如き霊的指導者を世に遣わし給うたのは、世を審かん為ではなく、かえって彼により世の救われんためであった。彼の教えを信ずる者は神の愛の御手に抱かれ、因果の法則を超越して審かれず、彼を信ぜぬ者は、既に因果の法則によって審かれているのである。彼らが自己内在のキリストこそ自分であると信ぜず、神の子なるところの人間の実相を信じないためである。光が世にあらわれているのに、人々はその行い悪しく、光に対して強いて目を閉じているために、光をみず、光があり乍ら暗黒だと呟き、暗黒を愛するのだ――これが審き即ち因果の法則のあらわれに他ならない。凡ては自分の心の中にあるのである。悪を行う者はかえって光をにくみ、光の下に来ようとしないのだ。何故なら光の下に自分の醜行を照し出されるだけの勇気が彼らにないからである。自分で自分の良心に責められるからである。しかるに真をおこなう者は光の下に寄り集い、その行いが神より出でたることの顕れるのを喜ぶのである。仏と仏とのみよく実相を究尽するのである。(ヨハネ伝2の1−3の21)